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なりみちヒストリー1971年11月に東京三鷹市で父正雄、母麗子の3人息子の長男として生を受けた。ヴァイオリン奏者、指導者をしていたが、その道の厳しさを誰よりも感じていた父は、3人の息子たちの誰にも幼年期にヴァイオリンを持たせることはしなかった。 その結果として、なりみちもごく普通の子供と同じ、かけっこや将棋の好きな活発な少年期を過ごす。 ![]() 生後6ヶ月のなりみち 8歳のとき母麗子のご両親、なりみちにとってはおじいちゃん、おばあちゃんと3人で、アメリカに旅行することとなった。この旅はなりみちにとってはもちろん初めての海外旅行。完成後間もない成田空港から、楽しみにしていたディズニーランドへ向けての出発であった。しかしほんの1週間ほどの予定で出かけたこのアメリカ旅行が、なりみちの運命を大きく変えることとなるのである。 ![]() ![]() 活発な少年時代 1978年 鹿児島にて
ロサンジェルスに着いたなりみちは、2日目から体調の不調を訴える。風邪を疑った祖父母は、宿泊先のホテルに医師の往診を依頼、扁桃腺の診断を受けた。祖父母は与えられた薬を飲ませ看病をするが、改善の兆候もなく、逆になりみちの症状は悪化の一途をたどった。数日後UCLAの大学病院に運び込まれたとき、医師の口から出た言葉に祖父母は愕然とする。 まれに見る症状で、病院としても同じ症例がほとんどなく適切な治療方法がわからず、しかも助かる見込みが非常に少ない危険な状態。原因はそのとき病院に担ぎ込まれる前に、往診した医師の処方による薬のせいだろうといわれている。その副作用で全身の皮膚がやけどを負ったようにすべて剥がれ落ちた。医師のチームによる必死の治療体制の甲斐あって、「生存率5%」の重体から、奇跡的に命を取り留めたものの、後遺症が出た。見る見る視力が落ちてしまったのである。 ![]() ![]()
1980年10月 ロスアンジェルスにて 長く続いた危険な状態を脱し、UCLAの中を歩く
10歳の出会い家族の言葉を借りれば、突然舞い込んだ不幸に「絶望のどん底」に陥るが、悲しんでばかりはいられなかった。3ヶ月にも及ぶこととなったアメリカでの入院を終えると、将来に向けて前進していかなければならなかった。それまで大好きだった将棋の道などを模索した果てに、アクシデントから2年が経った10歳の時、なりみちはヴァイオリンを手にする。ヴァイオリン奏者を目指すには、それはあまりに遅いスタートではあった。 ![]() お父さんの指導を受けるなりみち しかしその遅れを、なりみちは周囲が驚くほどの集中力で補い、見る見るうちに実力をつけていく。当時いまより少し視力のあったなりみちは、両親が模造紙に書き写した五線が三段しかない楽譜の束を壁に張り、一枚一枚はぎとりながら弾いて練習を重ねた。長い曲は100枚近くになり、部屋は大きな模造紙で埋まっていたという。 その3年後ヴァイオリンを初めて手にして3年後。ヴァイオリンの巨匠アイザック・スターンの公開レッスンに、全国の350人を超える応募者の中から選ばれたなりみちは、そこで既にスターンに絶賛されるほどの腕前になっていた。そのときのスターンのマスタークラスは実に真剣かつ厳しいものであった。取材を担当された朝日新聞社の記者によると、その中でスターンは相手を決して子供扱いすることなく、アドバイスも一人のプロの演奏家に対してなされるもののようであったという。 たとえば、「あなたはとても上手に弾いているけれども、あなたの音楽はレコードなどによる、人の真似です。その中にはあなた自身の音楽がありません」といったものまであった。その巨匠の前で演奏することになって「こんな有名な人の前で弾くことができるなんて、うれしいことだ」と感じたという。そしてパガニーニのコンチェルトを弾き終わったなりみちにスターンは歩み寄り、頭に手を載せ「すばらしい、すばらしい、すばらしい」と3回繰り返した。 ![]() 1989年1月 例年通りに正月から練習 高校・大学、そしてイギリスへ![]() 1997年4月 アカデミーの友人の パーティーにて誰かのヴァイオリンを 手におどけるなりみち その後、桐朋学園高校、桐朋学園大学で学び、さらに恩師江藤俊哉氏のすすめでロンドンの英国王立音楽院の大学院に進学。そして1997年、音楽院を首席で卒業、同時に四半世紀に一度催される、音楽院にとって大変由緒ある記念コンサートでソリストに抜擢される。大きな栄誉とチャンスが彼を訪れたのである。ブルッフ作曲のスコットランド幻想曲。演奏を終えた彼を、総立ちの聴衆が床を踏み鳴らしながら熱狂的に称えたその時こそ、プロの演奏家としての第一歩を踏み出した瞬間だった。 そして在学中に同音学院の様々な賞を受賞し、さらには175年を誇る英国王立音楽院の歴史の中で2人目になる、スペシャル・アーティスト・ステイタスの称号を与えられ、その栄誉は日英マスコミでも取り上げられた。 ![]() 1997年6月 英国王立音楽院の 卒業式の際に巨匠メニューインの 激励を受ける 1998年日本デビュー![]() 1999年4月 リサイタルのために 帰国した折、江藤俊哉先生宅で ピアニスト ダニエル・ベン・ ピエナールと共に 英国での感動が日本に逆輸入されるまでに、それほどの時間はかからなかった。1998年3月ついに日本でも、いきなりサントリーホールという桧舞台で、小林研一郎指揮による日本フィルとの共演でデビューを果たす。メンデルスゾーンのコンチェルトを弾き終わったとき、聴衆の熱狂的な拍手は10分近く鳴り止まなかった。小林研一郎氏はテレビのインタビューに対し「どこかにハンディがあったとしてもそれを超える物を、もしかしたら神、あるいは宇宙のエネルギーのようなものが、特別な形でハンディを絶妙に補う何かを与えてくれるのではないかと思います。それを授かったのが川畠さんだと思います。非常に良いものを持っています。」と応えている。 続く紀尾井ホールの初ソロリサイタルでは、いつまでも鳴り止まない聴衆の拍手に対し、なりみちは延々4曲のアンコールで答えた。そしてそれからは、行く先々で多くの感動の輪を広げつづけている。 |
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